2015年8月18日火曜日

愛を体現する〜2015年夏

今日、友人のお宅にお邪魔した際、
彼女の第一声が

『大丈夫? 何かあった???』

きょとん、とする私に、
『facebookの投稿みたら、ちょっと心配になっちゃって・・・』と。

その8月15日の投稿がこちら。

『 この
  いのちと愛を
  賜りましたこと
  感謝します。  』

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その日、
お墓参りと、産土神社へお参りをしました。
先の言葉は、産土神へ手を合わせた時に、自然と口から出てきたのです。



去年の年末、2015年のテーマは
『愛を体現する』にしよう!と決めていました。
(突然スミマセン(^_^;))

いよいよ、このテーマに本気で向きあおうと思い、絶賛チャレンジ中なのですが、

“愛”と正面から向き合おうとする時、
いつも浮上してくるのが、早くに死に別れた父とのこと。

もう40年も前のことなので、
理性的には納得し、受け入れて、前を向いているはずなのに、
まだ、魂の叫びのようなものが根底から湧き出てくる。

「いや、あなたが早く人生を終わらせてしまったのはしょうがない。
 でもさぁ、私はもっと
 あなたからの手放しの愛を体験したかったし、
 チヤホヤと、特別扱いをされたかったのよ〜!!」

と、写真の父に対して、満たされない思いをぶつけるのですが、

その都度、こう返事があるのです。

  「お父さんは今、園子をギュッと抱きしめることはできないけれど、
   園子が、園子自身を大事に抱きしめることは、
   お父さんがそうしてあげることと同じなんだよ」と。

このやりとりは、実はもう10数年続けているのですが、
ようやく、その意味がわかりかけてきた気がします。


誰かから愛されること、
誰かを愛すること、

その大前提に、

自分自身を愛すること。
いのち、それ自体が愛であることを受け入れることがある。

『自己受容』という言葉は、あまり好きではないのですが、
つまり、そういうこと、です。

イケてる自分も、
イケてない自分も、

平坦な道と、
茨の道があったら、
嬉々として、茨の道を選んでしまう、しょ~もない性(サガ)も (^_^;)、

まるごとすべてが、私そのもの。

愛、そのもの。

いのち、そのもの。


『愛を体現する』とコミットしてから、
いろんな人との関わりの中で、

愛は、外側にあるのでなく、
いつも、内側にある

ということに気付かされています。

その過程には、
感情の大きなうねりが伴うので、
時として、とても苦しいものなのですが、
(ってか、大体が身悶えするくらい苦しい^^;)

このうねりの後には、
必ず、ハートの領域が拡がっていくのを感じています。

そこは、とても静かで、穏やかなスペース。

今、
ここで、
感じる全てが

愛であり、
いのちであり、

そのエネルギーを、
全身全霊で躍動させていくことが
魂の歓びに繋がっていく。


と、気づけた時、
自然と、
このいのちをつないできてくださった
ご先祖様へ、
心からの感謝がわきあがってきました。


脈々と続いていくリレーの、
今が私の出番。

この、イケてるバトンを、
活かさずどうする!