今日、友人のお宅にお邪魔した際、
彼女の第一声が
『大丈夫? 何かあった???』
きょとん、とする私に、
『facebookの投稿みたら、ちょっと心配になっちゃって・・・』と。
その8月15日の投稿がこちら。
『 この
いのちと愛を
賜りましたこと
感謝します。 』
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その日、
お墓参りと、産土神社へお参りをしました。
先の言葉は、産土神へ手を合わせた時に、自然と口から出てきたのです。
去年の年末、2015年のテーマは
『愛を体現する』にしよう!と決めていました。
(突然スミマセン(^_^;))
いよいよ、このテーマに本気で向きあおうと思い、絶賛チャレンジ中なのですが、
“愛”と正面から向き合おうとする時、
いつも浮上してくるのが、早くに死に別れた父とのこと。
もう40年も前のことなので、
理性的には納得し、受け入れて、前を向いているはずなのに、
まだ、魂の叫びのようなものが根底から湧き出てくる。
「いや、あなたが早く人生を終わらせてしまったのはしょうがない。
でもさぁ、私はもっと
あなたからの手放しの愛を体験したかったし、
チヤホヤと、特別扱いをされたかったのよ〜!!」
と、写真の父に対して、満たされない思いをぶつけるのですが、
その都度、こう返事があるのです。
「お父さんは今、園子をギュッと抱きしめることはできないけれど、
園子が、園子自身を大事に抱きしめることは、
お父さんがそうしてあげることと同じなんだよ」と。
このやりとりは、実はもう10数年続けているのですが、
ようやく、その意味がわかりかけてきた気がします。
誰かから愛されること、
誰かを愛すること、
その大前提に、
自分自身を愛すること。
いのち、それ自体が愛であることを受け入れることがある。
『自己受容』という言葉は、あまり好きではないのですが、
つまり、そういうこと、です。
イケてる自分も、
イケてない自分も、
平坦な道と、
茨の道があったら、
嬉々として、茨の道を選んでしまう、しょ~もない性(サガ)も (^_^;)、
まるごとすべてが、私そのもの。
愛、そのもの。
いのち、そのもの。
『愛を体現する』とコミットしてから、
いろんな人との関わりの中で、
愛は、外側にあるのでなく、
いつも、内側にある
ということに気付かされています。
その過程には、
感情の大きなうねりが伴うので、
時として、とても苦しいものなのですが、
(ってか、大体が身悶えするくらい苦しい^^;)
このうねりの後には、
必ず、ハートの領域が拡がっていくのを感じています。
そこは、とても静かで、穏やかなスペース。
今、
ここで、
感じる全てが
愛であり、
いのちであり、
そのエネルギーを、
全身全霊で躍動させていくことが
魂の歓びに繋がっていく。
と、気づけた時、
自然と、
このいのちをつないできてくださった
ご先祖様へ、
心からの感謝がわきあがってきました。
脈々と続いていくリレーの、
今が私の出番。
この、イケてるバトンを、
活かさずどうする!
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